昨日、2カ月ぶりに実家の母に電話しました。
相変わらず元気なようで、妹の家にたまに行き、甥っ子たちの面倒を見てくれているようです。
震災から8年が経過…
当時、私は北海道に引越し、3年目、外で仕事中に関西に住む先輩から、
「宮城県が地震で大変なことになってる、実家、大丈夫?」
と電話がありました。
少し心配になり、仙台に住む妹に電話すると、
「停電だけど、別に大丈夫だよ。弟も大丈夫、電話で話したから、お母さんは連絡取れてないけど、大丈夫じゃない。」
安心し、会社に帰り、仕事を終え、自宅に戻るとテレビから映し出される映像をみて言葉を失う…
仙台空港を津波が襲っている。
そのすぐ近所に友人の自宅が、子供が1月に生まれたばかり…
再度、実家、南三陸町の母、仙台にいる、妹、弟、妻の母に連絡をするが、電話は誰もつながらない…
その後、そのまま数日が経過、妹と弟、妻の母は無事を確認。
母だけには、誰も連絡が取れませんでした。
弟が地元への道が開通したとの情報を聞き、「我慢できないので行く!」と実家に向かいました。
海沿いを避け、山道を通りながらなんとか実家に到着、山側にあった実家は流されず、母は近所の家を流されてしまったみんなと自宅で生活していました。
弟は、実家に着いたとき、最初に出てきた、家を流され、うちに避難していた近所のおばさんと抱き合い、無事を喜び、涙を流したそうです。
私も、フェリーが運航を始めた4月初旬に帰省しました。
変わり果てた故郷が目に入ってくると、ぼろぼろと涙がとめどなくあふれてきました。
それから、8年、母の生活は多少の不自由はまだあるものの、普通に戻りました。
妻の母は福島の実家が、原発により、立ち入り禁止区域となり、戻ることができず、仮住まいだった仙台でそのまま避難生活。
しかし、4年前、腎臓に影が見つかり、なにかあれば大変という事で、札幌に引っ越してもらいました。
今は同居し、一緒に暮らしています。
みんな、いろいろなことがありました。
親戚、友人、そのお父さん、お母さん、近所のおじさん、おばさん、同級生、たくさんの方が亡くなりました。
また、今でも近所の方が二人、見つかっていません。
しかし、少しづつ、みんな、前に進んでいます。
私は、喜び、悲しみ、楽しく、一生懸命に生きることが、残った我々の使命、目の前の家族、仲間、お客様の「幸せ」の為に全力を尽くすことが大事だと思います。
「震災のことは忘れても、震災で学んだことは忘れない」
3月11日、毎年、この日が来ると心に深く刻まれます。